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長崎簡易裁判所 昭和43年(ろ)145号 判決 1969年4月14日

被告人 井手和彦

昭一五・一一・二三生 会社員

主文

被告人は無罪。

理由

本件公訴事実は、「被告人は自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四三年五月一五日午後五時一〇分ごろ普通乗用自動車(長崎五に六九二九号)を運転し、長崎市宝町六番一号先の交通整理の行われている交差点を銭座通り方面から稲佐町方面に向い直進するにあたり、前記交差点は、交通量多く特に国道二〇六号線の朝夕は自動車等の交通輻輳して、信号機の信号が黄ないし赤に変わつても、自動車等が同交差点を通過し切れないでなお、交差点内に在ることがしばしばある特殊な変形的交差点であるので発進して同交差点に進入するに際しては、たとえ前面信号が青色に変わつても直ちに発進することなく左右道路から進行してくる車両との安全を確認すべき注意義務があるのにその安全を確認することなく漫然発進して時速約一五キロメートルで進行した業務上の過失により折から右方から直進してきた須藤勝弘(当二五年)運転の原動機付自転車(長崎市あ二六三三)に自車を衝突させ、よつて同人に加療約一〇〇日間を要する右膝及薦挫傷の傷害を負わせたものである。」というにある。

よつて案ずるに、右公訴事実中、同記載の日時場所において被告人が自動車運転の業務に従事中同人運転の普通乗用自動車と被害者須藤勝弘運転の原動機付自転車とが衝突し右須藤が右事実記載の傷害を負うに至つた事実は、一件記録中の各証拠によつてこれを認めることができる。

一、そこで本件傷害が被告人の過失によるものかどうかにつき検討するに、<証拠略>を総合するとつぎの事実が認められる。

(一)  本件事故現場は、ほぼ北方は国鉄長崎駅前から同浦上駅前を経て西彼杵郡時津町方面に通ずる国道二〇六号線と、ほぼ西方は市内稲佐町方面に通ずる県道と、ほぼ東方は市内銭座町方面に通ずる市道とが交わる不正形十字路の変型交差点(通称宝町交差点、以下単に本件交差点と略称。)である。そして右国道は歩車道の区別のある巾員約三五メートルのコンクリート舗装道路で中央に巾員約四、六メートルの複線の電車軌道が敷設され、そのため各車両の通行可能巾員は本件事故のあつた東側が約八、七メートルないし一二、七メートル、西側が約七、八メートルである。右県道は巾員約二七メートルの車道および自転車専用道路と歩道の区別のあるコンクリート舗装道路、右市道は巾員約七、二メートルの歩車道の区別のないアスフアルト道路である。そして本件交差点は、右市道が右県道をそのまままつすぐに延長した線上になく、同県道よりやや南寄りに右国道と交わつており、かつ巾員も前二者のそれに比してかなり狭隘であるため、十字路というよりは右国道と右県道との丁字路交差点に右市道が附着した交差点でもあるといいうる個所である。

(二)  本件交差点は信号機により交通整理の行われているいずれの方角からも見通しのよい地点である。右信号機は右市道と右国道の交わる部分の北側に北向きと西向きに各一基(検証調書添付図面に表示する甲信号機)、右県道と右国道の交わる部分の南側に東向きと北向きに各一基(同じく乙信号機)、同部分の北側に南向きに一基(同じく丙信号機)ならびに本件交差点の北端線上の国道横断歩道用としてその両端に各一基がそれぞれ設けられている。また、右市道と右国道の交わる部分には巾員約四、八メートルの横断歩道の道路標示がなされている。そして本件事故当時、本件交差点の南端線以南の国道巾員は、国道拡幅工事一部施行の結果歩道がけずられて従前のそれより約四メートル広くなつており、証人谷村忠憲の当公判廷の供述によれば、前掲甲信号機は右拡幅工事施行前には右国道と右市道が交わる部分の南側に設置されていたが、右工事施行のため前記のとおりその北側に移動させたことが認められる。(説明の便宜上、甲信号機の北向きと丙信号機の各信号を南北信号、甲信号機の西向きと乙信号機の東向きの各信号を東西信号と称する。以下同じ。)右各信号機の構造はいずれも横型の燈火による自動信号機であり、その各色表示時間は、南北信号については青色が三八秒、黄色五秒、赤色が二八秒であり、東西信号については青色が二八秒、黄色が五秒、赤色が三八秒であつて、一方が青色のとき他の一方は赤色を表示している関係にある。

(三)  本件交差点における交通量は各車両の往来が極めて多く頻繁である。特に国道二〇六号線は長崎市内における主要幹線道路の一つで車両の交通がはげしく、なかんずく朝夕のラツシユ時である午前七時三〇分ごろから同九時ごろまで、午後五時ごろから同六時ごろまでは車両が列をなして連なり交通渋滞が著しい。そのためか、浦上駅方面から長崎駅方面へ向う各車両が徐行を余儀なくさせられて本件公訴事実にも記載のとおり本件交差点に進入したものの南北信号が止まれの赤色に変わつてもなお依然として本件交差点内(前掲甲信号機の位置より南側部分)にあつて進行していることもしばしばである。つぎに多いのは前掲県道の稲佐町方面から南方の長崎駅方面へ右折しまたは同駅方面から右稲佐方面へ左折する車両である。これに比して前掲市道から右国道へ、または右国道から右市道への交通量は比較的閑散である。したがつて、ラツシユ時には銭座町方面の右市道から右国道を横断して稲佐方面の県道へ向う車両は東西信号が進めの青色に変わつても右国道を長崎駅方面へ直進する各車両と右県道から同駅方面へ右折する各車両との間隙を抜つてすばやく進行しなければならない状況にある。本件交差点における車両の制限速度は時速四〇キロメートルである。

(四)  被告人は、公訴事実記載の日時ごろ、同記載の普通乗用自動車を運転し、長崎市宝町にある出光石油スタンドで自車のガソリン補給後同人の勤務する会社に帰るため同市銭座町方面から稲佐町方面に向け前掲市道を進行中本件交差点にさしかかつた際、折から東西信号が赤の停止信号であつたので右市道と前掲国道の交わる部分に設けられた前掲巾員約四、八メートルの横断歩道の東側に位置していつたん停車した。そのとき被告人は自車の左斜前方に同じく信号待ちのため停車しているバイクを目撃したが東西信号が青の信号に変わつたので右バイクに続いて発進し時速約一五キロメートルで進行したところ、右方国道を長崎駅方面へ直進してくる須藤勝弘運転の原動機付自転車を右斜前方約一、六メートルの地点に初めて発見し衝突を避けるため急制動の措置をとつたが及ばず右原付自転車を自車の右前フエンダー付近に衝突させ、右須藤は車両もろとも右側に転倒し公訴事実記載の傷害を負うに至つた。

(五)  一方、被害者須藤勝弘は、本件公訴事実記載の日時頃、同記載の原動機付自転車を運転し前掲国道を北方の浦上駅方面から南方の長崎駅方面へ向け進行中本件交差点にさしかかつたが、南北信号が進めの青色信号であつたからそのまま進入したところ、本件交差点の北端線からほぼ南方に約二九、三メートルを算する地点で思わぬ車両の故障で停車し、はじめはその原因がガソリン切れと思つたがそうではなくエンジンキーが戻つて停車したのに気付いて再びスイツチを入れて発進した。(その間に要した時間は約一〇秒と認める。)その際同人はかなりあわてていたため、直面の南北信号を注視せず顔をやや下向き加減にして運転し時速約二〇キロメートルで進行した。そして同人は右再発進直後、左斜前方約一三、六メートルの地点に稲佐町方面へ進行しようとする被告人の車両とその前方を同方向に走行していたバイクを視認したが今なら右両車両の中間を通り抜けることができると速断したためそのまま進行し被告人車両に左斜前方約五メートルの地点に接近してはじめて危険を感じたが時おそく何らの措置をとることができないまま自車の正面付近を被告人車両の右前フエンダー付近に衝突せしめ自車もろとも右側に転倒した。

二、ところで、被告人が自車の対面信号が進めの青色に変わつたので発進したことは前記認定のとおりであるが、被告人は右発進直前に右方道路の交通に対する安全を確認するため右方の国道方面を見たところ、止まつていた須藤の車両を視認したがそれは須藤が同人の対面信号が止まれの赤色に変わつたので信号待ちのためであつたろうと思つた旨主張する。しかしながら右主張にそう被告人の当公判廷における供述は信用しない。

三、しかしながら、須藤は右故障をなおして発進する際の南北信号が止まれの赤色を表示していたにも拘らずこれをことさらに無視または不注意により看過してそのまま進行したことが認められる。すなわち、実況見分調書および須藤の検察官に対する供述調書ならびに被告人の司法警察員に対する供述調書によれば、被告人が東西信号が青色に変つたので発進した地点から本件衝突地点までの距離は約一三、六メートル、その間の同人の車両の速度は時速約一五キロメートル、秒速に換算すると毎秒約四、一六七メートルであつて、これからすると被告人が右発進時から右衝突時までの所要時間は約三、二六秒を要したことになる。これに対し右須藤が故障をなおして再発進した地点から右衝突地点までの距離は約一七、九メートル、その間の同人の車両の速度は時速約二〇キロメートル、秒速に換算すると毎秒約五、五五六メートルであつて、これからすると須藤の車両が右再発進時から右衝突時までの所要時間は約三、二二秒であつて彼此ほぼひとしい。してみると右須藤は被告人が東西信号が青色に変わつて発進した時とほぼ時を同じくして換言すれば南北信号が止まれの赤色に変わつた直後に再発進したことが認められ、しかも右再発進時には赤色に変つた右対面信号を容易に注視することができた位置(甲信号機の手前約一一メートル)にいたといわねばならない。

四、ところで、道路交通法第四条二項によれば、道路を通行する車両は信号機の表示する信号に従わなければならないし、同条四項同法施行令第二条によれば、交差点に入つている車両等は信号が注意の黄色に変わつたときは、その交差点の外に出なければならないと規定するところ、信号が赤色に変つた本件のような場合については何らの規定もおいていない。しかしその場合側面信号は進めの青色に変わつていて左右道路から進行してくる車両があろうことはたやすく予想できる場合であるから、止まれの信号が警察官の手信号であると信号機による信号であるとを問わずこれに従つてすべからく停車して避譲するなど適切な措置を講ずべき業務上の注意義務が当該運転者に課せられていると解しなければならない。そしてこのことは本件における須藤のように信号に従つて交差点に進入したが、交差点内で故障により一時停車して再発進する運転者に対しても当然要求されるものである。にも拘らず、右須藤は前記認定のとおりすでに対面信号が赤色に変わつているのにこれを無視または看過し、あまつさえすでに信号に従つて左方の前掲市道から本件交差点に進入してきたバイクおよび被告人車両の間隙を急いで通り抜けようとしたことさえ認められるから同人の過失は重いといわねばならない。

五、被告人が東西信号が青色に変わつたので発進する直前に右方国道方面を注視せず、したがつて須藤運転の車両を視認しなかつたことは前記認定のとおりであるが、一般に信号機による交通整理の行われている交差点における運転者としては自車の対面する青色信号に従つて発進すれば足り、特別の事情のない限りそれ以上に具体的に相手方の車両を視認していなくても赤信号を無視または看過して交差点に進入してくる車両がありうることを予想すべき業務上の注意義務がないものと解すべきことは、いわゆる信頼の原則に関して最高裁判所昭和四三年(あ)第四九〇号同年一二月二四日第三小法廷の判決(判例時報五四四号八九頁)が判示しているとおりである。したがつて本件の場合についても被告人には特別の事情の認められない限りいわゆる信頼の原則を適用し、右方道路から信号を無視して進行してくる車両を予想すべき注意義務はなく右方を確認しなかつたからといつてただちに被告人に業務上の過失があつたということはできない。

六、しからば、本件の場合に他に右にいわゆる信頼の原則を適用できない何らかの特別の事情が認められるであろうか。この点に関し検察官は本件交差点が交通量多く特に前掲国道の朝夕は車両が輻輳して信号機の信号が黄または赤に変わつても車両が同交差点を通過しきれないでなお交差点内にあることがしばしばである特殊な変形的交差点であるから単に信号機による信号にのみ従つて運転するだけでは運転者として業務上の注意義務を十全に尽したとはいいがたく、本件にいわゆる信頼の原則を適用することは適切でないと強調する。なるほど本件交差点が交通量多く、特に右国道の車両輻輳する変形的交差点であることは前記認定のとおりであり検察官所論のとおりであるが、反面信号機の設置等に関して設けられた道路交通法第四条各項の規定なかんずく同条第三項の法意に照らすと、交通頻繁であり危険発生の多い地点ほど信号機の信号に従うことが強く要求され、したがつて交通整理の行われている交差点における車両の運転者としては互に他の運転者が信号に従つて進行するであろうことを信頼して運転すべきであり、またそうすることによつて車両の輻輳した交差点における交通整理は通常の交差点であろうと、変形的交差点であろうと円滑に行われ交通の渋滞を免れるともいいうるのである。本件交差点が検察官所論のごとく車両輻輳し、変形的交差点であることをもつて信頼の原則を適用すべきでない特別の事情に該当するということはいえず所論は採用できない。

七、つぎに検察官は前掲国道の朝夕における車両の交通は輻輳して信号機の信号が赤に変わつても車両が同交差点を通過しきれないでなお交差点内にあることがしばしばであるから同交差点に進入する車両の運転者としては、たとい前面信号が青色に変わつても直ちに発進することなく左右道路から進行してくる車両との安全を確認すべき注意義務があると主張する。たしかに前記認定のとおり対面信号が赤になつてもまだ本件交差点を通過できない車両のあることは本件現場の検証施行時にも現認されたし、ほかにもラツシユ時には存するであろうことを窺知できる。そして現にそのような場合とか左右道路から信号を無視して直進してくる車両を現に視認した場合ならばいわゆる結果発生の予見が可能な場合であるから運転者としては対面信号が青色に変わつたとしても直ちに発進することなくそれらの通過できない車両や違法に進行してくる車両の動静を注視して暫く発進をやめるなどの措置をとる必要が存するであろう。またそれらの通過できない車両があるときは往々にしてその直後を後続する車両があることを予想できないわけではないから後続車の有無を確かめる意味で左右道路の交通に対する安全を確認すべき注意義務が存するであろう。そしてそのような場合を目していわゆる信頼の原則を適用できない特別の事情があると解するけれども、本件交通事故当時現に被告人が青信号にしたがつて発進しようとした際、被告人車両の前方を本件交差点を通過しきれない車両が進行中であつたとか須藤の車両が信号を無視して進行してきたことを被告人において現認したとかの具体的な事実は本件全証拠をもつても認められないから本件の場合いわゆる信頼の原則を適用できない特別の事情は何ら存しなかつたといわねばならない。結局いわゆる信頼の原則の適用に関してさきに説示したとおり青色信号にしたがつて発進した被告人には、右方道路の安全を確認しなかつたからといつて自動車運転者としての業務上の注意義務を尽さなかつた過失があつたということはできないといわねばならない。この点に関する検察官所論のように本件交差点では日ごろ往々にしてそのような事情が一般に見受けられるというだけではその主張のような注意義務が発生するということはできない。(ちなみに証人須藤に対する当裁判所の尋問調書によれば、同人が本件交差点に進入当時同人車両の前方約一〇メートルの地点を先行車が走つていた旨の供述があるだけである。)ひつきよう、本件事故は前記認定のとおり被害者須藤の信号を無視または看過して進行した一方的過失に起因するというほかはない。

以上の次第であるから本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰し刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。

(裁判官 豊田圭一)

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